《西日本鉄道折尾高架橋》
JR折尾駅の近くにある西日本鉄道折尾高架橋は1914年(大正3年)に造られた3連の煉瓦造りのアーチ橋です。
このアーチ橋の1連だけがアーチ坑内の煉瓦が斜めに積まれる「ねじりまんぽ」という特殊な構造で出来ています。
この「ねじりまんぽ」というレンガ積みの方法はめずらしいもので、日本に30〜40くらい(たぶん?)しか例がないようです。
なぜ、「ねじりまんぽ」というレンガ積みを行うかと言えば、橋の上を通る鉄道や道路などと、川や道などの通路が直角でなく、斜めに交差するときに、
このレンガ積みが使用されるようです。この方が力学的に良いのだと思います。この橋は現存する「ねじりまんぽ」の橋では日本最大級です。(近代化産業遺産)
なお、福岡県で「ねじりまんぽ」があるのは福岡県田川郡香春町 日田彦山線の一般道にかかる欅坂橋梁(けやきさかきょうりょう)と、ここの2か所だけのようです。
《堀川運河》
堀川運河は北九州市の楠橋から中間市、水巻、八幡西区の折尾を通って洞海湾まで続く全長 12.1Kmの運河です。つまり人間が造った人工の川です。
この運河は、およそ400年前から福岡藩により遠賀川の堤防の大改修工事にあわせて、遠賀川の水を分けて洞海湾に流し、遠賀川下流一帯の新田開発や洞海湾一帯の干拓工事を
行うという、とても壮大な計画のもとに始められたものです。
この運河は1621年に第1期工事が始まり、第2期工事、第3期工事、第4期工事が1804年に終わり、これで一応完成しました。運河の全長は 約12Km で、完成までに183年間かかりました。
当時の人々は遠賀堀川のことを「宝川」と呼んだそうです。この運河は米作りの用水、飲み水や川船による水運にも使われる宝物のような川だったのです。
潅漑用水で潤った田畑は約480ヘクタールで、当初は年貢米や材木・雑貨等を運んでいましたが、明治時代からは、筑豊の石炭増産で
重要な石炭の輸送路になりました。しかし、1891年(明治24年)に若松〜直方間の筑豊線、1908年(明治41年)香月線が開通し、蒸気機関車による大量輸送には太刀打ちできず、
「川ひらた」という船を使った水運は姿を消したのです。
折尾駅の夜景を撮影するまでに時間があったので、上のポスターの写真の「堀川車返しの切り通し跡」まで運河沿いを歩いて行ってみました。
折尾駅から「しんしん堀川」の上流に向かって、約 1.5Kmくらいでしょうかね? けっこう遠かったです。
途中には ◆古いレンガ造りの倉庫があったり、◆「三好セキ女史頌徳碑(しょうとくひ)」があったりします。この「三好セキ女史頌徳碑(しょうとくひ)」の三好セキさんはなにをした人かと言うと、
セキ女史は岐阜県の生まれで、炭鉱経営者(三好鉱業)の三好徳松氏と結婚しました。遠賀郡内に女子中等教育を行う学校の必要性を感じ、大正7年に私財を出して私立折尾高等女学校(現在は県立折尾高等学校)を設立した人です。
そして大正15年に私立折尾高等女学校は敷地、建物などすべて県に譲渡されました。
その後、セキ女史は、夫の徳松氏が亡くなると、周囲の反対を押し切って三好鉱業を日本炭鉱に売却し、会社の株式、広大な土地などの不動産をすべて処分し、
夫の三好徳松氏の名義で次々と公共に寄付しました。その後、福岡市に移り住み昭和33年に81歳で他界しました。・・・・・・うーん、なんと欲の無い、りっぱな人だと感心しますね。
◆「堀川車返しの切り通し跡」は、この堀川で一番の難工事であった場所です。ここは
「車返し」という高さ約20m、長さ約400mのかたい岩山をけずる工事でした。この場所の工事は、石工(いしく)という石工事の専門家が担当しましたが、
2時間もすると道具の刃(は)がだめになったため、鍛冶屋(かじや)がやとわれ、車返しに鍛冶場(かじば)をつくったほどです。
工事を始めてから7年後の1757年(宝暦7年)にようやく車返しの切り通し(きりとおし)が貫通(かんつう)しました。しかし、横はばがせまいため、これを広げる工事が行われ、さらに、
則松川へとつなぐ工事がすすめられ、1762年(宝暦12年)にようやく堀川は洞海湾(どうかいわん)まで通じたのです。今も「堀川車返しの切り通し跡」の岸壁にノミの跡が残っています。
※ 「堀川車返しの切り通し跡」の記述は堀川の歴史と文化(北九州市)を参照しました。