◆ シーボルトの胸像

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シーボルトは現在のドイツのバイエルン地方出身の人で医師でした。
1823年に出島のオランダ商館医として、長崎に来ました。
日本滞在中に日本の調査・研究を行い、その成果を著書「日本」として1832年に出版し
ヨーロッパに紹介しました。この本は当時の日本人の暮らしや豊かな自然と素晴らしい文化
など幅広く紹介している本でした。(黒船で浦賀にきたペルーもこの本で日本を研究していたそうです)

シーボルトは、日本に近代西洋医学を伝え日本の近代化に大きく貢献したほかに、
日本文化をヨーロッパに広く紹介したのです。そして日本の自然と文化をこよなく愛した人でした。
シーボルト記念館ではシーボルトの生涯をビデオで紹介したり、当時の日本の状況や医師としての
シーボルトの貢献などとシーボルト事件も新資料で紹介しています。

シーボルトは1823(文政6)年8月に来日して日本女性の楠本滝と結婚しました。来日して3カ月目の本国への手紙に
「愛くるしい 16歳の日本女性と結ばれました。・・・・」と書いているようなので来日してすぐに結婚したようです。
当時、シーボルイトは出島に住んでいましたが、出島には遊女しか出入りできなかったので楠本滝を遊女と偽り、出島に住まわせていたようです。(元々遊女だったという説もある)
そして二人の間に娘楠本イネが生まれます。

そして文政11年(1828)に5年の滞在を終え、数年後に再来する事を約束し、一時帰国することになりました。この時、外国人が所有することを禁じられていた日本地図などの多くを
持ち出そうとした罪で強制国外退去、再来日禁止、関係者の処分が行われたのです。これが有名なシーボルト事件です。
楠本滝と娘のイネは国外退去になるシーボルトが乗った船を見送るために、密かに小船に乗り長崎湾の入口の小瀬戸まで行き見送ったと云われています。
その後、楠本滝さんは娘のイネを連れて築町の商人俵屋時次郎と再婚しましたが、時次郎は44歳の若さでこの世を去ります。娘のイネはシーボルイトの教え子の支援を受けて日本最初の西洋医学を学んだ女医になりました。
シーボルトは 1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日し、お滝や娘イネと再会し、長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人と交流しました。この時の屋敷跡がシーボルト記念館になっている場所です。
お滝や娘イネと会いましたが、別れて約30年の空白でできた溝は埋める事ができなかったようです。
その後 1861年には対外交渉のための幕府顧問となりますが、終末期を迎える徳川幕府に別れを告げたかの様に1862年に官職を辞して帰国しました。
故郷のウェツブルクに帰ったシーボルトは1866年10月18日ミュンヘンで死去、70歳でした。
動画案内(約5分)
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