◆ 「出島橋」のそばにある和蘭商館跡の碑
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徳川時代にポルトガル人などを隔離する為に寛永13年(1636年)に築かれた扇形の人工島が出島です。
幕府は宗教と貿易を分離するために初めポルトガル人を入れ、島原の乱後は平戸にあったオランダ商館をここに移し寛永18年(1641)よりオランダのみに通商を許しました。
それ以来、安政5年(1858)「安政の開国」まで218年もの間、出島は西洋に開かれた我が国唯一の窓口でした。
西洋の国はオランダのみでしたが、中国との貿易も長崎でおこなっていました。キリスト教でない中国人は当初は長崎市内に住んでいました。
長崎の人口が6〜7万人であった時代に1万人の中国人が長崎にいたと言いますから、そうとうな数です。
中国人などによる密貿易が盛んになり後に中国人も今も残る唐人屋敷に閉じ込められました。
ちなみに出島に常時いたオランダ人は15人程度だったようです。
もちろん貿易船が入港すると船乗り達が、しばらく出島で暮らしましたが、船が入港していない時は15人程度だったようです。
オランダとの貿易船も年に1隻か2隻程度来るだけで、まったく来ない年もあったようです。その点、中国の船は年に10隻以上来ていたようですから、
長崎はオランダ貿易より中国貿易で栄えたと言っても過言ではありません。

今の出島は平成12年に復元されて一公開されたものです。場所はほぼ、元の出島の位置ですが、川の護岸工事や埋め立てにより場所は若干ずれているようです。
川向かいから出島の石垣が見えますが、この石垣も元の石垣ではなく復元されたものです。

今の出島の中には旧出島神学校、出島資料館や出島シアター、旧内外クラブ記念館、ヘルト部屋、一番船船頭部屋、などの昔の建物を再現したものが建っており、
周辺はベンチのあるちゅっとした公園となっています。
外にも日時計や海から引き揚げた当時の大砲、シーボルトさんが持ち帰った植物を再度、ドイツからいただいと「シーボルト里帰り植物」などがあります。
出島を 1/15のサイズで復元したものが庭園で見られますが、意外と家数は少なかったようです。まあ、常時は15人程度しか住んでいなかったのですから、こんなもんでしょうね。
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