◆ 武蔵のブロンズ像
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熊本市から阿蘇方面にむかう県道337号線(旧国道57号線)そばの龍田弓削地区に
宮本武蔵の墓所の一つである武蔵塚がある。ここは昔は大津街道のそばで老杉が立ち並んで
いたという。恩を受けた細川藩主が江戸参勤交代で通るのを草葉のかげで拝したいという
武蔵の生前の希望でここに埋葬された。今は墓石のほかブロンズ像や日本庭園、茶室などが
設けられ武蔵塚公園として親しまれている。
宮本武蔵は天正12年(1584)<10年という説もある>に美作国吉野郡讃甘村大字宮本(現:岡山県英田郡大原町宮本)に
生まれたといわれていますが、その前半生とともに明らかではありません。
武蔵は13歳のときに有馬喜兵衛と初めて勝負をして以来、29歳までの間に60余度の勝負をしますが、一度も敗れた
ことがなかったといわれています。とくに29歳のときに下関の厳流島で小倉の厳流・佐々木小次郎と決闘したことは有名です。
しかし、この試合の後、武蔵はその日の内に現在の大分県の中津方面に逃走し以後20余年間の足取りは不明です。
最近の調査によると(細川家の古文書等により)厳流島での決闘は1対1の約束であったが、武蔵は弟子達をつれてゆき、
まだ息のあった小次郎を殴り殺したと言われています。その仕返しを恐れた武蔵はその日の内に逃走し姿を隠したのではないかと
も言われています。吉川英治の小説「宮本武蔵」とは内容が異なるようです。どちらが正しいかは定かでありません。
それから20余年後武蔵は「自分は日本一の剣客であることを強調し、ぜひ召抱えて欲しい」と全国の大名に手紙を送りましたが、
ほとんど無視されました。武蔵の剣法は喧嘩剣法であり高くは評価されていなかったようです。しかし唯一熊本細川藩の細川忠利から
「召抱えてもよい」という返事が来て、武蔵は寛永17年(1640)に熊本に来ました。このとき武蔵は57歳でした。
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