◆ 金印公園に建つ「漢委奴國王金印発光之処」記念碑
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金印公園は正面には能古島(のこのしま)が見える志賀島(しかのしま)の南部にあります。博多湾を出入りする船がよく見える風光明媚な場所です。
そこの、けっこう急な斜面を上がった場所が金印発見の場所です。金印公園のどこが発見場所かは、はっきり書いてないのですが、
たぶん金印の印象を模した金印の碑が建っている場所だと思われます。
ここで江戸時代の天明4年(1784年)にお百姓さんが発見したことになっています。その発見の様子は「大きな石を除けると三方を石で囲まれた中に金印はあった」と言う事になっています。
これは近くの相ノ島の海岸に多く残っている箱式石棺だと私は思うのです。
ただ、相ノ島の石棺は5〜6世紀のもので若干年代は違いますが、そのような墓だったと想像するのです。

では、だれの墓なのか?
この福岡東部は卑弥呼の時代には奴国(なこく)があった。これは多くの人が認めている事です。そして、この近辺は古代日本を代表する海神族であった
阿曇(あづみ)族の本拠地でした。ようするに奴国(なこく)は阿曇(あづみ)族の国だったと思っていいようです。
阿曇(あづみ)族は海神(ワタツミ)を信仰する一族で、一説では紀元前473年頃 中国の越に敗れた呉の家臣が水稲の技術と養蚕の技術を持って
日本に逃れて来たのが阿曇(あづみ)族と云われています。

この阿曇(あづみ)族は九州から瀬戸内海を経由し近畿、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、
伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)まで移住し現在地名が残っているそうだ。
そればかりか、朝鮮半島や中国まで行って交易を行っていたそうなので驚きです。パイオニア精神に溢れる人々だったようです。
ひょっとすると志賀島は日本の文明の発祥地なのかもしれません。

漢の皇帝「光武帝」から授かった金印を家宝にしていた阿曇(あづみ)族の首領が金印とともにここに埋葬されたのではないかと想像します。
埋葬された時代は漢から授かった金印が不要になった時でしょうから、漢が滅亡した 西暦 220年以降ですね。丁度、卑弥呼の時代(西暦240年頃)ではないでしょうかね?
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