● 承天寺(じょうてんじ)と博多山笠
承天寺の山門前に「山笠発祥之地」の碑があるとおり、この寺が博多の祭り博多祇園山笠の発祥の地と言われています。
まあ、これには諸説あるようですが・・・・ で、ここが「山笠発祥之地」という話は、次のとおりです。
鎌倉時代の1241年夏、博多で疫病が蔓延し多くの人々がその犠牲となりました。このとき、宋から帰国してきた承天寺の開山聖一国師弁円(べんねん)が、
町人達のかつぐ施餓鬼棚(せがきだな)に乗って町内を練りまわり、祈祷水(きとうすい)の甘露水を振り撒いて町中を清めたら疫病が治まった言われています。
この施餓鬼棚(せがきだな)が発展して山笠の形となったという話です。
これらの話から、毎年の山笠の追山では承天寺の前に清道旗(赤地に清道と書いた旗)が立てられ、承天寺の住職が見守る前で追山が清道旗をぐるりと回ります。
● 饂飩蕎麦(うどん・そば)発祥之地
聖一国師は宋から製粉技術を持ち帰り、国内に粉食文化である饂飩蕎麦(うどん・そば)を広めたといわれています。
それで境内に「饂飩蕎麦(うどん・そば)発祥之地」の碑があるのです。まあ、これも饂飩(うどん)は四国の讃岐が発祥の地で弘法大師(空海)が
唐から伝えた」という説が讃岐地方では言われており、蕎麦(そば)も信州や甲州が発祥との説もあるようです。
● 承天寺(じょうてんじ)と饅頭(まんじゅう)
饅頭(まんじゅう)も博多に初めて伝わったと言われています。
仁治二年(1241年)に宋に留学していた聖一国師が博多に帰着しました。この時に茶屋の主人栗波吉右衛門(くりはきちえもん)に
酒皮饅頭(さかまんじゅう)の製法を教え、看板用に自ら筆を執り「御饅頭所」の書を与えたといわれています。
● 承天寺(じょうてんじ)と博多織
博多商人の満田弥三右衛門(みつたやざえもん)は聖一国師と共に中国の宋に行き、五科(織物、朱焼、箔焼、素麺、麝香丸)の
製法を学んで帰りました。これらは当時の最先端技術でした。
満田弥三右衛門(みつたやざえもん)はこれらの技術を多くの人々に伝えましたが、織物の技術だけは、家伝の秘宝としたそうです。
これが、日本初の厚手の絹織物「博多織」の起原とされているのです。
● 承天寺(じょうてんじ)と謝国明(しゃこくめい)
謝国明(しゃこくめい)は中国・臨安府生まれの生粋の中国人で小呂島(福岡市)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多綱首(ごうしゅ、こうしゅ)だった人です。
綱(ごう)は海上輸送のため組織された集団を指し、綱首(ごうしゅ)は船長を意味します。そして
日本(博多)に定住し、貿易を生業(なりわい)とする人々を、博多綱首(ごうしゅ)とよんでいました。今風に言えば「貿易商の親分」と言うことでしょう。
謝国明(しゃこくめい)はその博多綱首(ごうしゅ)だった人です。
彼らは中国大陸と博多を船団を組んで盛んに往来し、日中貿易で巨万の富を築いていたのです。
この謝国明(しゃこくめい)は禅への信仰心もあつかったようです。
1195年(建久6年)に帰朝した栄西が博多に聖福寺を開山したのも、謝国明ほかの宋人の援助があったからといわれています。
1241年(仁治2年)の承天寺開山も謝国明が援助したことによるものです。
謝国明(しゃこくめい)の財力は相当なものであったようで、櫛田神社にも協力を惜しまなかったし、
宝治二年(1248年)に承天寺が火災にあった時、彼は「一日にして仏殿など十八堂を再建させた」と伝えられています。
まあ、1日は無理としても直ぐに再建させたということだと思います。
謝国明(しゃこくめい)は後に日本に帰化し日本名を謝太郎国明(しゃたろうくにあき)と名乗ったようです。
そして弘安三年(1280年)10月7日に亡くなりました。
この謝国明(しゃこくめい)の墓が承天寺(じょうてんじ)の南約100mの位置にあります。場所はここ(中央"+"付近)
そこには大きな楠の木があったので地元では「大楠さん」と言われています。この楠の木は謝国明(しゃこくめい)の墓が造られたときに植えられたと言われていますから、
樹齢700年余りなのですが、今は枯れており横に植えられた若木が育っています。
● 川上音次郎 1864年2月8日(文久4年1月1日)〜 1911年11月11日
『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました。川上 音二郎(かわかみ おとじろう)は、「オッペケペー節」で一世を風靡した新派の俳優・芸人である。本名(幼名)は川上音吉といいました。
1864年(文久4年)に現在の福岡市博多区対馬小路に生まれました。継母と折り合いが悪く、家を飛び出し大阪へ密航。見つかるが出奔し東京へ行きました。
福澤諭吉の書生など職を転々としながら、反政府の自由党の壮士となり、政府から弾圧されました。
1887年(明治20年) 自由民権運動の弾圧が激しさを増し、音二郎は東京から大阪に移り、自由童子と名乗り政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行ってしばしば検挙されました。
この時、落語家の桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)入門し「浮世亭○○(マルマル)」と名乗り、文之助の門人である3代目桂藤兵衛が創作した、世情を風刺した「オッペケペー節」を寄席で歌い、評判を高めました。
1899年(明治32年) 渡米しアメリカ合衆国で興行を行う。
1900年(明治33年) パリ万博で公演。米国興行に続いて人気を博する。同年帰国、「オッペケペー節」をレコードに録音。これが日本人初のレコードへの吹き込みとされています。
1908年(明治41年)興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場である帝国座を開設する。同時に帝国女優養成所を創設。
1911年(明治44年)音二郎は舞台で倒れ死去。