◆ 北西角から見る大天守石垣
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八代城は球磨川の河口近くの八代市松江城町にあり、八代市役所の近くです。別名 松江城とも白鷺(しらさぎ)城とも言われています。
今の位置に城ができたのは元和8年(1622)で、加藤清正の子 忠広が幕府の許可を得て築城しました。大国であった薩摩を牽制するための
熊本城の支城ですが、城の規模も大きく石垣も濠もりっぱな城です。
各藩は城は一つにしなさい。という一国一城令(1615年)の後に造られた城ですが、例外的に熊本藩は一国二城体制が認められたようです。
これも薩摩を牽制する要衝であったためでしょうかね。
豊臣の重臣であった加藤家は徳川から睨まれており、些細なことで寛永9年(1632年)改易されてしまいました。
その後には、豊前小倉藩主だった細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とし、
いずれは四男の立孝を八代城の本丸に住まわせる予定でしたが、立孝も父 忠興も 正保2年(1645年)に亡くなってしまいました。
それで、当時 筆頭家老でかつ先祖は室町幕府の足利将軍家に仕えた将軍直臣(じきしん)の身分も持つ松井興長(長岡佐渡守)を八代3万石の城主としました。
松井氏は細川家臣でありながら実質上の肥後八代支藩3万石の大名格藩主でした。
毎年の参勤交代こそしなかったようですが将軍の代替わりに際しては江戸に出府して将軍に拝謁したそうです。
そして、八代城は明治3年(1870年)の廃城まで代々松井氏の居城でした。

今の八代城の前には麦島城(むぎしまじょう)というのがあった。この麦島城は1588年(天正16年)に肥後に入部した小西行長が
小西末郷に命じて築城した城であったが1619年(元和5年)の大地震によって城は倒壊したと伝えられています。その後にできたのが
今の八代城です。
ちなみに麦島城(むぎしまじょう)の前には中世の古麓城があったそうだ。

●八代城図
動画案内(詳細 約3分)
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