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佐賀県佐賀市諸富町
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◆◆◆◆◆ 除福伝説 ◆◆◆◆◆

 除福伝説は今から約2200年前の中国の秦(しん)の始皇帝の時代のことです。 この秦の始皇帝は万里の長城を築いた人であり絶大なる権力を握っていたが、唯一手に入れられないのが寿命がくるといつかは死ぬことでした。 死にたくない誰か不老不死の薬を探してこーい。と、始皇帝はいつも言っていたのです。

 そこに除福(じょふく)という半分詐欺師のような人が現れ、東の海の向こうにに蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という 三神山があって仙人が住んでおりそこに行けば不老不死の薬があります。と言って莫大な資金と船と人を始皇帝から出させて探しに行ったのですが、探しきれず一度目は失敗に終わりました。

その時は「大きな魚(鯨)が現れ行く手を阻まれて行けませんでした」と、なんとかいい訳をしました。それではもっと大きな船団を組んで行けーーー。 という事で2度目の旅立ちには3000人の男女を乗せて大船団で不老不死の薬を探しに出かけたが帰ってこなかった。という伝説です。

まあ、不老不死の薬を持ち帰らないと殺されるので帰らなかったと思われます。
2度目の時は子供も女性も含めて3000人もの人を乗せ、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術者も乗せていたといいますから初めから帰るつもりはなかったのかもしれません。

 それで除福はどこに行ったかというと、中国を出て黒潮海流に乗ると自然と日本に着くのですから日本に来たと考えるのが常識的です。現に中国でもそう考えられています。 一説には秦(はた)という苗字は除福一行の子孫であるとか神武天皇は除福であったとか、稲作は除福が日本に伝えたとか、いろいろ言われています。
また、日本各地に除福伝説があり、ここ佐賀市諸富町もそのひとつです。

 佐賀市諸富町の除福伝説は・・・・・除福は初めに杵島の竜王崎(佐賀県白石町)に着き上陸しようとしたが葦(あし)が茂っていて上陸できず、海に大盃を浮かべ、これが着いた この地に上陸したそうです。この除福上陸地は旧名を浮盃(うばい)新津といい「除福上陸地」の石造りの標識や「除福上陸記念碑」などが立っています。ここは金立権現神社の跡地で 金立神社跡の記念碑もあり、現在も除福を偲んでの祭りが行われているそうです。

《 参考になるHP 》
●「徐福伝説」八木 敦さんのホームページ

 
 


 ◆ 新北(にきた)神社にある除福が植えたと伝えられているビャクシンと大クス ※場所はここ(マピオン)
新北(にきた)神社にある除福が植えたと伝えられているビャクシンと大クス


 ◆ 推定樹齢2200年のビャクシン
推定樹齢2200年のビャクシン(樹高20m、幹回り4.1m、枝張り6m)

 除福一行は上陸後に井戸を掘って手を洗った。と言われています。 その音が訛(なま)って寺井の地名になったとも言われているのです。御手洗という地名もあります。

 この時の井戸もありますが民家の中にあり外から井戸は見えません。民家の人に言えば見せていただけるようです。近くのコンビにの人は 「子供の頃、あそこの家でよく遊んでいたが底なし井戸と言っていた」と言われていました。けっこう深い井戸のようです。

 そして新北(にきた)神社には除福が植えたというビャクシンの木もあります。このビャクシンは日本の温暖な地方にありますが自生するものはほとんどなく、 植樹されたものがあるだけです。このような自生の古木はめずらしそうです。また、除福の古里である江南地方には自生のビャクシンの木が多くあるそうです。

 そして除福一行はしばらく、ここに滞在し、やがて不老不死の薬を求めて北方にそびえる金立山に向かったと伝えられています。
除福上陸地

 ◆ 除福上陸地 ※場所はここ(マピオン)
除福上陸地
◆ 手洗の井戸のある民家(外から見えない)※場所はここ
手洗の井戸のある民家(井戸は外から見えない)





   ■■■■■ 諸富町その他の名所 ■■■■■ 


 
 

◆◆◆◆◆ 諸富町その他の名所 ◆◆◆◆◆

●大堂神社の銅の鳥居 ※場所はここ(マピオン)
 大堂神社銅造明神鳥居は寛永17年(1640年)の銘があり江戸時代初期の作です。この銅造鳥居は県内唯一の鋳銅製明神鳥居であり、 島原の乱に出陣した初代小城藩主鍋島元茂が戦勝祈願成就に大堂神社に寄進したものです。
この時期の鍋島氏は、島原の乱における軍令違反により幕府の尋問を受け、佐賀領内や江戸表では、佐賀藩改易が心配されていた時期です。 この鳥居の銘文中にみられる「武運彌盛」「子孫繁行」の文字は苦境に立たされた鍋島家の安堵を願う元茂の心が表れてものと推察されています。
また、英彦山には鍋島元茂の父鍋島勝茂公が寛永14年(1637)に寄進した銅の鳥居があります。この鍋島氏は 元の藩主竜造寺氏の筆頭重臣であり正式な大名ではなかったわけであるが、家督を継いだ龍造寺高房が幼少であったから鍋島直茂が代わって国政を行う状態であった。 そうしていると慶長12年(1607年)に高房が死亡して、鍋島勝茂が幕府公認の下、後を継いで佐賀藩の初代藩主となったのです。 しかし、鍋島勝茂は歌舞伎や講談では主家を乗っ取った悪役とされています。だけど英彦山の銅の鳥居や散在していた龍造寺家の墓なども集めて龍造寺、鍋島両家の御墓所となっている高伝寺 などを見ると鍋島家の人々は言われているような悪者ではなくて信仰深く律儀な人達であったと思われます。

●光徳寺のぼたん・つつじ ※場所はここ(マピオン)
 光徳寺は4月後半から5月初旬にかけて樹齢200年の「ぼたん」と1000本の「つつじ」の華の競演は見事なもので、訪れる人々の目を楽しませてくれます。と、聞いていたので 行ってみました。が、それらしい庭がありません。それで横の墓地の方に回って奥に行くと、なんとなくそれらしい庭がありました。
ツツジが咲いてはいましたが、すばらしい!と、いうほどの事は無かったです。そこそこですかね? ボタンの花は見かけませんでした。まあ、あえて見学に行くほどのことも無いと思います。

●筑後川昇開橋 ※場所はここ(マピオン)
 大川市と佐賀市諸富町の間の筑後川に架かる歩道橋です。下に動く昇降式可動橋で元は国鉄佐賀線に架かっていた橋梁でしたが佐賀線が昭和62年に廃止になり歩道橋として利用されています。 詳しくは九州の橋「筑後川昇開橋」をご覧ください。

 
 


 ◆ 大堂神社の銅の鳥居
大堂神社の銅の鳥居
 ◆ 光徳寺のつつじ
光徳寺のつつじ
 ◆ 筑後川昇開橋 (詳細はここ
筑後川昇開橋





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企画・制作 (株)システム工房 ・ 最終更新日 2007年 5月04日
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