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瀧廉太郎(1879-1903)と朝倉文夫(1883-1964)
天才作曲家として有名な瀧廉太郎は明治12年(1879)東京で誕生しました。明治24年(1891)には父が大分県の直入郡長となったので
竹田に赴任してきました。そのとき廉太郎は12歳でした。その後14歳のときには最年少で東京音楽学校に入学しました。
明治30年(1897)に「砧(きぬた)」を作歌したのをはじめとして、「春の海」作曲など多くの歌を作歌・作曲し
明治34年(1901)には有名な「荒城の月」、「箱根八里」などを作曲しました。同年4月ドイツに向けた横浜を出航し10月
ライプティヒ国立音楽学校に入学しました。しかし体調をくずし志半ばで翌年の8月に帰国しました。
大分市内の遊歩公園にある「瀧廉太郎終焉之地」の記念碑付近にあった実家で療養していましたが、明治36年(1903)6月29日に
結核で亡くなりました。23歳と10ヶ月の短い生涯でした。廉太郎の墓は市内の万寿寺にあります。
大分市内の「遊歩公園」には瀧廉太郎の像と終焉之地の碑(上の写真)があります。廉太郎の像は大分県豊後大野市朝地町出身の朝倉文夫の作です。
(朝地町に朝倉文夫記念館がある) この朝倉文夫
は東洋のロダンと言われた彫刻界の巨匠で多くの彫刻を残しています。大分市内にも瀧廉太郎の像や姉妹、みどりのかげ、青年などの
像があります。ちなみに朝倉文夫は竹田高等小学校で瀧廉太郎の後輩になります。瀧廉太郎が明治12年生まれで朝倉文夫が16年
生まれですから4年後輩になるのですかね。天才音楽家と天才彫刻家が同じ時期に同じ学校で学んでいたんですね。後に先輩の瀧廉太郎の像を
作ることになるとは、このころは夢にも思わなかったでしょうね。
また、名曲「荒城の月」のモデルとなったと言われている竹田市の岡城に立つ瀧廉太郎の像
と大分市内の遊歩公園の廉太郎の像(上の写真)は同じ鋳型から作られたもののようです。
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