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大分城(府内城)の歴史
今の大分市には古くから豊後国の国府が置かれていたようですが、城下町として発展したのは
建長7年(1255)に大友能直(よしなお)が豊前、豊後の守護職として入国したころからです。
大友能直は古国府大野あたりに居館を構えていましたが、大友氏9代氏泰のとき居館を古国府から
上野(大分市内上野町)に移し大友館あるいは西山城と称しました。
その後21代大友宗麟の時代には九州の中部から北部までを勢力圏内に収めるほどの
大大名にのしあがったが、その後を継いだ義統(よしむね)の時代に、秀吉の征韓の折に
敵の猛攻の前にひるんで逃げたということで、文禄2年(1593)改易となりました。
そのあと文禄3年(1594)には早川長敏が入封したが、慶長2年(1597)正月 木付(きつき)に移されると同時に、
秀吉の家臣福原直高(なおたか)が臼杵六万石から府内十二万石に増封され上野大友館(西山城)に入りました。
しかし、城が戦乱や地震で老朽化しているため、新しく上野の北、大分川の河口近い荷落揚に築城を計画しました。
これが今の大分城です(当時は荷揚城と言っていた)。
城は慶長4年(1599)に一部完成したが、福原氏は石田三成の妹婿であったことも原因と推測されるが、表向きは
慶長の役の時、軍監として不公平があったとして 改易(かいえき)させられ領地没収となりました。、
そして早川長敏が再び入封した。早川氏も慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍についたために改易となり翌、慶長6年(1601)
竹中半兵衛の子、竹中重利が二万石(のち三万五千石)で入封します。竹中重利は徳川家の許可を得て加藤清正の助力を得ながら
城の築城を再開しました。慶長7年(1602)には四層の天守閣がそびえる城郭がほぼ完成し、名も「府内城」と改められました。
しかし竹中重利も長崎奉行時代に密貿易をおこなったことで罷免になり切腹を命じられた。その後、日根野氏が封ぜられたが、
後継ぎがなく断絶しました。万治元年(1658)松平大給(おぎゅう)忠昭が二万一千石で入封し、明治4年(1871)の廃藩置県まで10代に
わたり松平家が藩政を司ってきました。
この間寛保3年(1743)には城下におこった大火で天守閣をはじめ城の多くの施設が焼失しました。その時は徳川政権の安定した時代で
戦争のない時代でしたので天守閣は再建されませんでした。
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