◆ 「東洋のネルソン」と言われる東郷平八郎の銅像

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騎馬のイギリス人が薩摩の大名行列を横切り、無礼者として供回りの藩士が殺傷した生麦事件。
この事件の賠償問題から薩英戦争が起こりました。
この薩英戦争に東郷家は父子4人がそろって出陣しました。
鹿児島湾のイギリス軍艦は計101門の大砲で、鹿児島市内を砲撃し、イギリスの最新鋭のアームストロング砲は
薩摩の砲台を正確に破壊しました。
力の差をまざまざと見せつけられた時、平八郎はじっと海をにらみ、「海から来る敵は海にて防ぐべし」と海軍への道を志した。と言われています。
東郷平八郎は西郷隆盛や大久保利通など明治の偉人を多く輩出した下加治屋町郷中の出身です。平八郎が生まれたのは1847年で
西郷隆盛は1828年、大久保利通は1830年ですから生まれた時代は少し後ですが、西郷や大久保の育った家から300m程度しか離れていないですね。
東郷平八郎は幼少の頃は仲五郎(ちゅうごろう)といい、芯の強い子供であったようです。西郷隆盛の弟の西郷吉次郎(1833年〜1868年)に
可愛がられていたようです。
その後、維新戦争では軍艦春日に乗り込み、次々と戦いに参加し、維新後は海軍の留学生としてイギリスに学び、帆船ハンプシャーで世界一周も体験しました。
7年間の留学の後に、イギリスに発注していた日本の新鋭艦で帰国。
その後一生を海軍に捧げ、ロシアのバルチック艦隊を全滅させ、「東洋のネルソン」としてその名を世界にとどろかせました。
東郷平八郎の銅像は海の見える多賀山公園の中にあります。ここの少し高い所にあり海と桜島を見つめて建っています。
その銅像の近くに墓もあります。東郷平八郎は国葬により東京の多磨墓地に埋葬されましたが、ここにも遺髪が葬られ墓が造られました。
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