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鹿児島市西千石町
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◆ 明治の元勲 大久保利通の銅像

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大久保利通の銅像は鹿児島中央駅の東北にある高見橋のそばにあります。大久保は洋風な事が好きで家でも洋間に住み、洋服を着て、髪にはポマードを使用していたと言います。
それだけに、銅像も洋装で蝶ネクタイにベストを着てモーニングですかね?丈の長い上着を風になびかせています。風貌も髭を生やして、鋭い眼光で上を見ています。
この大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。
大久保は天保元年(1830年)に生まれました。幼名は正袈裟(しょうけさ)、通称は一蔵、雅号を甲東(こうとう)と称しました。
幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の藩主島津忠義(ただよし)の父、久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕をふるいました。
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部(おきのえらぶ)から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみて、
ついに慶応3年(1867年)に明治維新が達成されたのです。
明治維新後も大久保は政界の中心人物として版籍奉還(はんせきほうかん)、廃藩置県の実現につとめました。また、欧米諸国を視察し、
帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。
ところが、この頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友(幼馴染)を失ったのです。その大久保も明治11年(1878年)に出勤途中を襲われ急死しました。47歳でした。
ロンドンタイムスは「大久保氏の死は日本全国の不幸である」と報じたそうです。
西郷隆盛が自決したのは明治10年9月24日で、大久保が襲われたのが明治11年5月14日ですから、1年の差もなく両巨星は亡くなった事になります。
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◆ 像の後ろには獅子(ライオン)のいる噴水がある

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◆ 大久保利通の肖像画(尚古集成館蔵)
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◆ 大久保が育った場所 ※場所はここ
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◆ 大久保の生誕地 ※場所はここ
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● 大久保利通と西郷隆盛
大久保が生まれたのは1830年9月26日で、西郷隆盛は1828年1月23日ですから、西郷隆盛の方が2歳年上になります。
この二人は明治の偉人を多く輩出した下加治屋町郷中の出身です。西郷の育った場所と大久保の育った場所は距離にして150m程度しか離れていません。
鹿児島県では、なんと言っても西郷隆盛の人気があり、大久保の人気はありません。
いや、大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元では不人気と言ってよいでしょう。
大久保利通の生誕地なんか駐車場の隅にひっそりとありました。犬を散歩させていた地元の人2人に聞いても場所すら知らなかったですね。
この大久保利通の銅像も西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという話もあります。
そういう事で鹿児島の西郷隆盛の銅像は昭和12年(1937年)にできていますが、大久保の銅像は没後100年を記念して、昭和54年9月26日に設置されました。
この大久保の銅像は中村晋也氏が制作し、台座からの高さは9.7mで、像のみは4.3mです。
私の個人的な考えでは、あの明治初期の混乱期には西郷達の征韓論より大久保達の内治優先論が正しいと思います。
そして西郷は征韓論で敗れ、下野し温泉三昧と狩りで遊んでいましたが、
大久保は明治初期の混乱期を治め、日本の近代化に大きな貢献をしました。大久保がいなければ廃藩置県もできずに日本の近代化は相当遅れていた気がします。
今の日本があるのも大久保のおかげでとも言えるのです。西郷より大久保の功績の方が大きいと私は思うのです。
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