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鈴木重成(すずきしげなり)
鈴木重成(すずきしげなり)は徳川家康ゆかりの三河武士で旗本でした。
天草・島原の乱のとき、重成は松平信綱が総指揮をとる幕府連合軍の砲術隊長として参戦しました。
乱後も島原に留まり残務整理と復興計画を練っていました。その見識と手腕がかわれ天草・島原の乱の後に鈴木重成は初代代官となりました。
鈴木重成は着任すると天草を10組86ケ村に分割して、各組に大庄屋・年寄・百姓代を設置しました。
そして、乱によって人口が激減した天草に移住民の誘致を急ぎ、西国大名に対し移民を出すように要請しています。
また、キリシタンの根絶と荒れ果てた天草島民の心を仏教への帰衣によって安定させようとし、寛永19年9月に
当時高僧と知られていた実兄の正三(しょうさん)を迎えました。
正三和尚は、重成とともに寺や神社の創建・再建を進め19寺3社を建立しました。特に東向寺(天草市・旧本渡市)、国照寺(苓北町)、
崇円寺(天草市河浦町)、円性寺(天草市栖本町)は「天草四ヶ本寺」と呼ばれ、宗教政策の中心寺となりました。正三和尚は3年余りの滞在の間、
重成を支え、この政策は人々に大きな影響を与えたと言われています。
また、鈴木重成は天草・島原の乱の原因は過大な年貢の取り立てであり、天草の実情から石高4万2千石は高すぎるとして石高の半減を
幕府に上申し続けました。しかし、石高の変更は前例がなく幕藩体制の根幹ですから聞き入れられることはありませんでした。
追い込まれた重成は将軍に直訴しました。しかし、当時、直訴は許されていなかったのです。それどころか直訴は本人の極刑は
もとより、お家断絶になりかねない重罪でした。
その直訴が原因かは定かではありませんが、1653年江戸の私邸で自刃したと言われています(病死という説もある)。
私説ですが、自刃したのが本当だと思います。ただ、幕府は乱の再度の発生を恐れ病死説を流し、お家断絶などの重罪にしなかったものと思われます。
その後、養子の鈴木重辰(重辰は兄正三の子どもで、重成の甥)が二代目代官となりました。その時代の万治2年(1659年)に天草の石高は2万1千石になり、
ついに年貢半減が認められました。
今も天草で重成はじめ重辰、正三は「鈴木様」と呼ばれ慕われています。その後島民あげて鈴木3氏(鈴木重成、重辰、正三)の遺徳を偲んで
天草市(旧:本渡市)に「鈴木神社」や供養碑が建立されました。
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